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ネバダ (USS Nevada, BB-36) はアメリカ海軍の戦艦。ネバダ級戦艦のネームシップ。艦名はアメリカ合衆国36番目の州にちなむ。その名を持つ艦としては二隻目。その設計はドレッドノートと同じくらい革新的な物であった。本艦以前の戦艦は防御する部分の重要性に合わせて様々な装甲厚を持っていたが、ネバダは弾薬庫や機関室などの重要部分に最大厚の装甲を施し、それほど重要でない部分の装甲はほとんど無かった。これは「''All or Nothing''」として知られるようになり、この考え方はドイツ海軍以外の全ての海軍によって採用されることとなった。またネバダの設計官は長距離射撃の弾着は側面ではなく上甲板部に行われることを認識しており、ネバダの甲板部は厚い装甲が施された。 == 艦歴 == ネバダは1912年11月4日にマサチューセッツ州クインシーのフォアリバー造船所で起工した。1914年7月11日にネバダ州知事タスカー・オディーの姪であり、海軍省長官ベンジャミン・ストッダートの子孫であるエレノア・アン・セイバートによって進水した。1916年3月11日に初代艦長ウィリアム・S・シムス大佐の指揮下就役した。 就役後はロードアイランド州ニューポートで1916年5月26日に大西洋艦隊に合流した。その後東海岸及びカリブ海で作戦活動に従事した。バージニア州ノーフォークで砲撃訓練を行った後、1918年8月13日にイギリス海軍艦隊に加わるため出航した。アイルランドのバントリー湾に8月23日に到着、北海を通って航路を造り、ウッドロウ・ウィルソン大統領の乗ったジョージ・ワシントン(''USS George Washington'')を護衛した。 戦間期は大西洋、太平洋両艦隊において作戦任務に従事した。1922年9月にはブラジル独立百年記念式典にアメリカ合衆国の代表としてリオデジャネイロを訪れた。1925年7月から9月までアメリカ海軍艦隊のオーストラリア、ニュージーランドへの友好訪問に参加した。この巡航でアメリカ海軍はその広範囲な巡航能力が日本海軍と同等の物であることを実証した。1927年8月から1930年1月にかけてノーフォーク海軍造船所で近代化改修が行われ、その後十年にわたって太平洋艦隊で活動した。 1941年12月7日、ネバダは真珠湾のフォード島に単独で係留されていた。他の7隻の戦艦が攻撃を受けている間、ネバダは自由に行動することができた。砲手は砲撃を始め、機関兵がエンジンを始動させると同時に、ネバダは日本軍の雷撃を受けたが、どうにか始動することができた。湾を出ようとしている間に爆弾を受け、入江で沈没し湾を塞いでしまうことが懸念されたため、ホスピタル・ポイントで自力で座礁したが、曳引船によって他の場所に再度座礁した。ネバダの乗員は50名が死亡し、109名が負傷した。 1942年2月12日に引き上げられ真珠湾、続いてピュージェット・サウンド海軍工廠で修理が行われ、その後アッツ島攻略支援のため1943年5月にアラスカに向けて出航した。6月にはノーフォーク海軍工廠で近代化改修が行われ、続いてノルマンディー上陸作戦支援のため1944年4月にイギリス海域に到着した。6月6日の上陸作戦当日、ネバダはシェルブール半島の防衛陣地に対して支援射撃を行い、25日まで継続した。海岸からの反撃は27回にも及んだが、ネバダの砲撃は変わらず継続された。 8月15日から9月27日までネバダは南フランスへの艦砲射撃を行い、ツーロンでは大戦初期に戦艦から取り外された13.4インチ砲を装備した海岸砲台との砲撃戦を行った。その後ニューヨークで主砲身を交換し、太平洋戦線へ向かった。1945年2月16日に硫黄島へ到着、3月7日まで海兵隊の上陸作戦を支援した。 3月24日に沖縄侵攻前の砲撃が行われネバダはそれに加わった。3月27日に特攻機が突入、11人が死亡し主砲塔にも被害を受けた。4月5日には艦砲射撃の間に2名が行方不明となった。6月30日まで沖縄で作戦行動を行った後、7月10日から8月7日まで日本本土攻撃を行う第3艦隊の護衛任務に従事した。 ネバダは第二次世界大戦の戦功で7個の従軍星章を受章した。 東京湾での短期間の占領任務の後に真珠湾へ帰還し、ネバダはビキニ環礁における原爆実験(クロスロード作戦)の標的艦に供用されることが決定した。1946年7月に実験が行われたがネバダはそれを生き残り、真珠湾へ戻り8月29日に退役した。その後、1948年7月31日にハワイ沖で標的艦として砲撃及び魚雷によって海没処分された。2006年時点でネバダの船体は発見されていない。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「ネバダ (戦艦)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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